1.必見!労働基準監督署への申告「完全準備リスト」
以前、某プライム上場企業I社に勤める友人A氏が労働基準監督署に申告した結果、全社員に未払い残業代が支払われ、サービス残業が改善された話を紹介した。ある程度予想はしていたが、内容が内容だけにこちらの記事に対する反響は予想以上に強く、非常に多くの読者に読まれた。
その後、私のブログを読んだ当の本人A氏から「この事もブログに書いておいてくれる!」というリクエストがあったので、少しだけ補足しておこう。
まず、A氏が労働基準監督署に相談する前に、まず行ったことは図書館で本を借りて労働法についてきちんと理解すること。特に以下の書籍は大変ためになったとか。もし、未払い残業代について労働基準監督署に相談する予定がある人(?)は、是非参考にしてほしい。
その上で、A氏が労働基準監督署を訪問した際に持参した証拠書類を紹介しよう。特に、労働時間と残業代未払いの事実を立証するため、1~3は絶対に欠かすことはできない。これらがないと労働基準監督署は、そうそう簡単には動いてくれない。少なくとも一個人が国家権力を動かそうとするのだから入念な準備と十分な証拠が必要。こればかりは面倒だが、未払い残業代を回収するためには致し方ない。A氏は半年かけてこれらを準備。
- 就業規則・給与規定
会社の労働時間と給与に関するルールで、I社のイントラネットから入手。
- 給与明細書
残業代が「0円」と表示された給与明細書を1年分用意。
- 労働時間記録
本来ならば、I社はタイムカードを整備して、労働者の労働時間を記録管理しなければならないが、上場企業のくせに全く皆無というコンプラ的に完全にアウトな状態。そこで、A氏はエクセルで実際の労働時間の開始時間と終了時間を入力した勤務記録表(半年分)を自作した。
- 社員情報一覧
労働基準監督署が臨検を行った際に勤務地ごとの社員情報をスムーズに把握しやすいように、社員の氏名が記載された内線番号表をA社のイントラネットから全ページ分を印刷して、労基署に提供。
- 名刺
A氏がI社の平社員(=残業代支給対象者)であることを証明するため名刺を労基署に提出。
- 上申書(経緯説明書)
A氏は、労働基準監督署への本気度を示すために、「自社では残業代が支払われておらず、労働法違反状態が恒常的に発生している。社会的責任を負う上場企業におけるコンプライアンス上の問題を是正するために労働基準書におかれては、早急にI社に臨検を実施されたい」という上申書を作成。
2.「匿名」での臨検。そして、まさかの展開へ
A氏は、盆休み期間中(=会社が休みだが、役所が空いている日)に自社の本店所在地を管轄する労働基準監督署を訪問し、1~6の書類を提出した。監督官も書類に不備がないことをチェックして、「この内容ならば臨検に踏み込むことは可能ですね」と回答。その際、A氏が監督官に強く要望したのは、くれぐれもA氏が申告したとI社に絶対にわからないように匿名扱いにすること。これについては監督官に何度も念を押したところ、近日中の臨検を約束してくれた。
それでもすぐには労働基準監督署は動かなかったので、A氏は、その後催促の電話を入れると、ようやくI社への立ち入り検査が実現。当然この事態を想定していなかったI社の社内は大混乱。当然ながら労働法違反をあっさりと認定される。東証プライム上場企業といえども、国家権力に対して意外に脆いもので、行政指導には逆らえない。
ここからはA氏の目論見通り、事態は一気に加速していく。
3.「在職中」の申告が持つ破壊的な威力
よくあるのが退職した社員が腹いせに労働基準監督署に過去におけるサービス残業の実態を申告するケースだが、この場合には両者の雇用契約は解消しているので、残業代の支払対象者は申告した退職社員一人のみとなる。
しかし、A氏のような在職中の現役社員が労基署に申告した場合、未払い残業代の支払対象はその会社拠点の全従業員まで拡大する。これが両者の最大の相違点で、後者の場合には会社に与える影響度はケタ違いとなる。労基署の担当者から「本当にいいんですね?会社に激震が走りますよ。」と念押しされたA氏は、「ええ、もちろん。この際ですから徹底的にやって下さい。なんなら社長を書類送検してもらっても構いませんよ」と即答。
結果として、労働基準監督署から指導を受けたI社の人事部は、これまでのずさんな労務管理体制を是正するために 人事部門の増員・ICレコーダーの導入・勤怠監視カメラの導入など、180度の方針転換を余儀なくされる。さらには過去6ケ月分の全社員の未払い残業代を計算するため、遅くまで残業する羽目になるという皮肉な結果に(笑)。もちろん、このカウント業務も労働時間になるので、残業代支払いの対象となるのは言うまでもない。
ある意味、Aさんによる内部告発でI社はとんでもない大損害を被ったが、そのきっかけを作った張本人であるAさんいわく、「別に昭和時代の社畜じゃないんだから、いまどき会社への忠誠心なんてアホらしい(笑)。これだけコンプライアンスが重視されている時代なんだから当然の事じゃん」と、気持ちが良いほど図太い神経かつ泰然自若ぶり。
ちなみに、このAさんという人物は、派手なヒーロータイプではないが、「静かに研ぎ澄まされた刃」のような人物。普段は組織の歯車として目立たず機能しているが、理不尽に対しては法律という剣を使って、最も効果的な一点を突く。「味方にすればこれほど頼もしい存在はおらず、敵に回せばこれほど恐ろしい相手はいない」という人物の典型例だろう。
4.時効の壁と、労基署の「忖度」
ちなみに、未払い残業代は労働者がいつまでも請求できるわけではなく、あくまで消滅時効が成立するまでの間。特に2020年4月の改正民法施行後は、これまでの2年から3年まで延長されている。本来ならば、「あらゆる消滅時効は全て5年に統一する」という改正民法の趣旨(タテマエ)に基づき、残業代請求の消滅時効は5年になるはずだった。
ただし、このあたりは、経団連など経営サイド側の横やりが入って、例外ルールとして3年にするという生臭い逸話が残されている。つまり、会社側としては「労働者から長期間分の残業代請求を受けるリスクをできるだけ排除しておきたい」というホンネがあるというわけ。
そうならば、労働基準監督署がA氏の内部告発に基づき、I社に臨検に入った際、「全従業員に3年分の未払い残業代を支払え。」という是正命令を出すべきだが、実際はたった6ケ月分だけだった。不思議に思った私が労働法に詳しい弁護士の友人に確認したところ、いきなり年単位の残業代を支払うとなると会社の資金繰りにも影響を及ぼすし、臨検に基づく是正命令(行政指導)を出す場合には3~6ケ月程度にとどめる(=手心を加える)のが実務上の通例らしい。まあ、このあたりはお役所である労働基準監督署も民間企業に対して少しは忖度しているのだろう(笑)。それはそれで仕方ないかも。釈然としない部分は残るが、費用負担ゼロで国家権力を動かして未払いを回収できただけでも、個人としては大きな勝利と言えるだろう。
5.氷河期世代よ、「餓狼」として生きよう
最後に、A氏が語った言葉が印象的だった。
「本当はこんな後ろ向きな事に時間とエネルギーを費やしたくなかった。しかし、自分としてはこの不公平には到底納得できないし、家族を養うためにも現状を容認できない。ただし、一番怖いのは会社側からの報復人事だし、自己保身のために自分が申告したと絶対に会社にバレないようにする必要があった。一応、公益通報者保護法の対象になるだろうけど、あれはザルだらけの法律なのであまりアテにはならないね。」
「一応I社にも労働組合はあるが、従業員の利益を守るためというより、その目的は『幹部候補生養成機関』に近く、全く信用できなかった。従って、組合に相談しても会社側に筒抜けになる可能性があったので、結局は自分一人で行動するしかなかったんだよね。まあ、今回のように労働基準監督署に申告した結果、プライム上場企業の労務コンプライアンス体制を良い方向に導くことができたし、長い目で考えると自分は会社と従業員に対してとても良い事をしてあげたと思っているのだけど(笑)。」
「バブルの恩恵を知らない自分たち氷河期世代は他世代に比べて本当に損していると思う。だけど、自分と家族が生きていくためになりふりなんて構ってられないし、だからこそ、これからの不安定・不規則な時代は、会社とは、別に全人格を費やす対象ではなく、自分と家族が生きていくために期間限定で利用するためのツールの一つぐらいに割り切った方が人生楽だろうね。」
・・・「搾取に甘んじるのではなく、取れるところから確実に取りに行く(=労基署という国家組織を使って合法的に最大限の効果を出す)」という並外れた行動力を備えた、まるで餓狼のようなA氏の人生哲学は、この厳しくも世知辛いご時世を世渡りしていく上で、なかなか参考になるのではないだろうか。

コンプライアンスが叫ばれる昨今、どれほど立派な看板を掲げる企業であっても、自浄作用が働かないケースはよくある話。特にサービス残業の実態は会社によってかなり違うのが実状だろう。世間的には信用度が高い(はずの)東証プライム上場企業であってもこの体たらくであり、A氏の知略と行動がなければ改善されることはなかっただろう。そのような堅実かつ巨大なプライム企業を相手に、「一人の社員が労務コンプライアンスを根底から書き換えた」という事実は、日本の企業史においても稀に見るエピソードであり、その凄まじさが際立つ。
今回、A氏さんのとった一連の行動は、現代の労働者が身につけるべきスキルそのものを表している。
- 感情ではなく制度(感情的ではなく合法的に制度を利用する)
- 勇気ではなく準備(準備こそ最大の武器)
- 忠誠ではなく自衛(会社に依存しないサバイバル思考)
- 理想ではなく現実(完璧ではなく現実的な最大利益を優先させる)
今回のA氏の「武勇伝」は、氷河期世代だけでなく、「令和の時代に労働者がどうあるべきか」という普遍的な問いに対する回答のように思える。読者の皆さんもこの不安定な時代を生き抜くためのサバイバル哲学として、A氏のしたたかな<餓狼的処世術>を参考にしてほしい。