1.古巣の廃業に寄せて
先日、久しぶりに大阪市中央区の天満橋付近に出かける用事があった。思いのほか時間が余ったので、少し足をのばして界隈を歩いてみることに。川沿いを渡る風は心地よく、少し懐かしい匂いを感じさせる。ちなみに、天満橋は夏の天神祭りでクライマックス(船渡御(ふなとぎょ)と奉納花火)を迎えるスポットでもある。
そんな街並みを歩いていると、ふと大学を卒業して最初に勤めた司法書士事務所のことを思い出し、かつて通った雑居ビルを訪ねてみた。事務所はその一室を借りていたはず。ところが、実際に訪れてみると扉に掲げられていたはずのプレートは外され、部屋は空っぽになっていた。「移転でもしたのだろうか?」と思って、帰宅後に日本司法書士連合会のHPの会員検索で調べても事務所名でヒットしない。どうやら、知らぬ間に廃業してしまったようだ。
初めてスーツに袖を通し、社会人として一歩を踏み出した場所が、こうして静かに姿を消していた。その事実にひっそりと寂しさが広がる。だが、司法書士業界も少子高齢化や競争の波にさらされている現実を思えば、無理もないことなのかもしれない。そんな気持ちの整理もかねて、あの頃の記憶を少し振り返ってみたい。少し長くなるが、私の思い出話にお付き合い願えれば幸いである。
2.初めての職場と私の原点
私のキャリアは、大学卒業と同時に企業法務へと直行したわけではない。実際には、いくつもの寄り道と試行錯誤を重ねてきた。
私は、もともと在学中から司法書士試験を勉強しており、LECなどにも通っていた。その関係で大学3年生の頃、大学の募集掲示板で見つけた天満橋の司法書士事務所にアルバイトとして勤務。大学4年生になってもまともな就職活動を行っておらず、大学卒業後の進路も未定。その時に事務所の経営者に誘われてそのままアルバイトから社員として勤務した。これが私の社会人人生の出発点。給料は月13万ほどで、それほど多くない。あくまで勉強中の見習いという立場だから贅沢は言えない。
3.下積みの日々と京都滋賀への往復
無資格者ゆえ、もちろん司法書士としての決済業務に立ち会うことはできなかった。私の役割は主に、登記申請書の作成や法務局への提出、銀行との書類の受け渡し、市役所での住民票や戸籍の取得といった雑務全般だった。(当時は過払い金請求は認められておらず、不動産登記が収益のメインだった)
事務所のメンバーは個性豊かだった。高齢ながらも有資格者として事務所を率いるA先生。資格はないものの、その知識と経験で皆を支えるベテランのBさん(番頭格)。元銀行員という異色の経歴を持つCさん(有資格者)。そして、私と同じく無資格者のDさん。その他にもアルバイト数名が在籍。あの頃の私は、下っ端としてあらゆる雑用をこなしていた。

当時ですでに高齢であったA先生は、元軍人という異色の経歴で、太平洋戦争にも出征したらしい。そして、終戦後に司法書士として独立し、軍人時代の人脈を生かして某大手ハウスメーカーや某信用金庫から仕事を安定して受注。特にハウスメーカーで新築住宅を建築した施主の住宅ローンの利用に伴う所有権保存登記及び抵当権設定登記が売上のメインだった。ただ、その担当地域が京都・滋賀であったため、私は、毎日のように京都や滋賀の法務局に頻繁に足を運ぶことになった。特に草津・守山・近江八幡・水口・八日市などは足しげく通ったものだ(当時は現在のような郵送による登記申請は認められていなかった)。その道中で見た琵琶湖の美しさや、山々の緑が目に焼き付いている。今でも私が滋賀県を愛し、登山などで訪れるのは、きっとあの頃の記憶が深く根差しているからだろう。
4.理想と現実の狭間で
当初は「働きながら資格を取る!」という意気込みでいたが、以下の通り現実は厳しかった。
- 零細事務所ゆえの、厚生年金や健康保険のない現実。国民年金だけで老後を迎えることへの漠然とした不安。
- 不動産会社や銀行の決めた枠組みの中で、ただひたすらに作業的な手続業務を反復する日々に、創意工夫が入り込む余地の少なさと専門的なキャリア形成の不安。
- そして、何よりも、生活を潤すにはあまりにも薄い給料。
私が働き始めた当時は、インターネットで司法書士業界の実態が今ほど明らかにされていなかった。だからこそ、実際に飛び込んでみて初めて、その「現実」を目の当たりにしたのだ。今でこそSPAなどで勤務司法書士の待遇がクローズアップされるようになったが、当時はそんな情報に触れる機会すらなかった。
そんな矢先、事務所に就職してきた司法書士試験一発合格者のMさんが、わずか3ヶ月で辞めてしまう出来事が発生。Mさんは奥さんの妊娠をきっかけに将来のライフプランを改めて真剣に考えたらしい。「合格率3%の難関国家資格の一発合格者(異業種からの転職者)が将来を不安視してその業界を離れる」という事実にショックを受けた私は、悩んだ挙句、司法書士業界で身を立てることを断念。その後、転職して別の業界を経て、さらに不思議な縁に導かれるようにして企業法務という天職に出会うことになる・・・。

あと、両方の仕事を経験してわかったが、司法書士(登記)の仕事は、「他者が決めた内容をそのまま手続レベルで再現するだけで、その決定内容を動かせない」という一面がある一方、企業法務は「他部門を巻き込みつつ、自分なりの創意工夫を反映させて、仕事のアプローチや進め方をコントロールできる」という面白さがある。確かに責任は非常に重たいが、個人的には後者にこそ「仕事としての面白みやダイナミズム」を感じている。
5.事務所のその後
私が去った後の事務所は、高齢のA先生が引退し、無資格のBさんが後を継ぐという異例の事態に直面した。そこで、事務所を司法書士法人化し、実質的なトップをBさんが勤め、形式上の経営者として若い司法書士を雇い入れるという「裏技」で、A司法書士法人として再スタート(その数年後にA先生は逝去している)。しかし、Bさん(実質的な経営者)との軋轢で若手司法書士(形式的なおかざり)が退職するというトラブルもあったようだ。こうして結局はA司法書士事務所は廃業という終焉を迎えてしまった。・・・時の流れというものは本当に容赦がない。

私が20代の一部を捧げた事務所は、こうして完全に姿を消した。
あれからかなりの歳月が経過して、多くの転職を経験してきた私は、紆余曲折を経て、現在は某企業の法務部門のプレイングマネジャーとして企業法務という全く別の仕事に従事している。しかし、現在でも司法書士と縁が完全に切れたわけではなく、自社の不動産や商業登記を司法書士に依頼することがたまにある。以前、不動産登記の申請書類として、本人確認で免許証のコピー(&本人に間違いがない旨の一筆入り)を求められた際には、昔に比べて手続きが厳格になったことに非常に驚いた。その一方で、かつて登記を依頼される側だった私が、今や依頼する側に回るという現実になにやら面白みを感じたが。同時に、天満橋で悪戦苦闘していた若かりし日々を思い出し、どこか懐かしい気持ちに包まれる。これも人生の妙といったところか。
今にして振り返れば、長い回り道の多い人生だったけれど、あの日々が無駄だったとは全く思わない。むしろ、あの挫折があったからこそ、別の道を模索する勇気が生まれた。そうして、(20代であった当時の私にはその後に企業法務の道に進むとは全く想像できなかったが)これらの「回り道の経験」が、企業法務のプロフェッショナルとしての素質を開花させてくれたと、今でも固く信じている。
・・・かくも人生とは、本当に不思議で、そしてありがたい。
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